大阪大学歯学部阪井教授インタビュー【前編】MA-T を用いた口腔ケアで感染症に立ち向かう

2022.06.08

2019年末、新型コロナウイルス感染症のパンデミックが発生し、私たちはこれまでにない対応を迫られました。感染者の増減を繰り返しながら、ウイルスとの共存を余儀なくされる状況となっています。

そのような状況下、大阪大学歯学部の阪井丘芳教授より、除菌消臭作用のある成分「MA-T」に関する研究成果が発表され、口腔ケアにより新型コロナウイルスの感染を抑制する可能性について報告されました。

今回はこの画期的な研究に関してお話を伺い、新規口腔ケア製品の開発エピソードや MA-Tの今後の展望、阪井先生のこれまでの経歴についても振り返っていただきました。

感染症対策について興味をお持ちの方だけでなく、研究者のキャリアパスとしても参考になる貴重なお話です。「MA-T研究との出会い」、「キャリアパスについて」 を前編・後編の2回に分けて紹介しておりますので、是非最後までお読みください。

 

MA-Tとは何か?

MA-Tは、Matching Transformation System の略称であり、日本語では「要時生成型亜塩素酸イオン水溶液」と表記されています。主成分は亜塩素酸イオンで欧米では水道水の消毒に利用されています。

もともとMA-Tは除菌消臭剤としてその一歩を踏み出しました。MA-Tの特長としては、細菌やウイルスを抑える効果があるのに、生体への為害性がほとんどありません。大阪大学創薬基盤科学研究部門が作用機序を解明する依頼を受け、薬、工、医学研究科で研究が始まりました。

工学部では酸化制御メカニズムの一端が解明され、常温常圧におけるメタンからメタノールの合成に成功しました。薬学部では癌に対する効果、医学部では潰瘍性大腸炎に対する効果が報告されました。MA-Tは、それぞれの分野で素晴らしい結果を出して、今も研究が進められています。

エースネット社が全日空商事と合同で、A2Careという除菌消臭剤を売り出しました。MA-Tは、除菌消臭作用があるだけでなく無臭、無害、そして何より発火しないという点で航空機内の除菌に最適だったため、全日空だけでなく、日本航空、Peachなどの国内線全てで利用されています。

A2Careは効果的な除菌消臭剤として大ヒットし、ホテルなど多くの施設で使用されています。そうして徐々にMA-Tが認知されていった訳です。

MA-Tにおける要時生成メカニズム(提供元:日本MA-T工業会)

MA-T研究に関わられた経緯について

大阪大学の井上豪教授らが、MA-Tの作用とそのメカニズムについて調べていた頃、世界中で新型コロナウイルス感染症のパンデミックが始まりました。SARSやMERS、インフルエンザなどにも効果があれば、新型コロナウイルスにも有効なのではないか?研究した結果、2020年5月に新型コロナウイルスに対する有効性が確認されました。

MA-Tは新型コロナウイルスを不活化する(提供元:日本MA-T工業会)

 

MA-Tはその除菌作用を活かして、既にマウスウォッシュやスキンケアなどの商品に展開されていました。そこで、コロナ対策にも使えるのではないかという話が浮上した訳です。ちょうどコロナが日本で出始めたぐらいの頃に「口腔に活用できないか?」と井上教授からご相談いただきました。これが本研究に参加したきっかけです。

医療・介護現場に役立つ使い方ができるのではないかと考えました。それは、口から食事ができない患者さんのための口腔ケアです。胃ろう(胃に穴を空けカテーテルで直接栄養を送り込む方法)や点滴などで栄養を摂取して、口から食べなくなると唾液の自浄作用と抗菌能力が低下します。口の中に汚れが蓄積されやすくなるので、汚れの除去と除菌消臭にMA-Tを応用したいと考えました。

実証実験で驚きの結果から商品化へ

実は、医療・介護現場ではこの汚れの除去が大きな課題になっています。汚れがこびりつくと容易に除去できず、無理に取ろうとすると口腔内を傷つけてしまいます。口腔内の汚染状態によっては、1人あたりの口腔ケアに、30分以上の時間を費やしてしまうこともありました。多忙な医療従事者にとっては、大変な仕事の1つです。

もともと除菌消臭作用があるMA-Tを歯磨き粉のようなジェル状にして使用することで、除菌消臭ができて汚れも取れやすくなれば、患者さんだけでなく医療従事者にも役立つのではないかと考えました。早速、エースネット社にお願いして200種類以上の試作品を作成してもらいました。その中から、厳選した口腔ケアジェルを医療・介護現場で試用させてもらいました。

MA-Tの効果に驚きました。汚れがわらび餅のようにふにゃふにゃになって簡単に取れたんです。今まで 30 分近くかけて除去していた取れにくい汚れが、わずか5分ほどで綺麗に取れました。手早くスムーズに取れるので、口腔内を傷つけるリスクも軽減でき、患者さんだけでなく医療従事者も喜んでくれました。血が止まりにくくなる薬を服用している脳血管障害の患者さんにも、安心して口腔ケアができます。

MA-Tによる口腔ケアはテレビでも紹介された

 

これは大発見だと思いました。しかも、MA-Tに細菌やウイルスの増殖を抑える効果があります。そのため徐々に汚れが付着しにくくなり、次回の口腔ケアが容易になりました。すぐに大阪大学に発明届を提出し、特許出願しました。研究着手からわずか 6ヶ月で特許出願まで至ったスピード研究でした。

迅速に研究開発ができたのは、コロナ禍の影響が大きかったと思います。病院も大学もコロナの影響で色々なことが止まってしまいました。普段ならば、患者さんを診察したり、大学の授業をしていた時間を自分の研究にあてることができました。そのため、研究に打ち込める時間が増えたのです。若い頃を思い出して日々研究にうちこみました。

納得のいく口腔ケアジェルが完成したのは、2020年末頃。そのタイミングで、アース製薬の川端社長にお会いする機会があり、本格的に商品化を進めていただけることになりました。

 

新型コロナウイルスに関する研究

実は並行して、新型コロナウイルスが結合する受容体ACE2の発現部位についての研究をしていました。当時、新型コロナウイルス感染症は肺の病気だと思われていたのですが、ACE2は肺よりも腸や腎臓などの臓器に多いことが報告されるようになりました。

研究を始めると、唾液腺にもACE2が多いという思いがけない発見をしました。唾液腺にウイルスが感染して、その唾液がウイルスを拡散するとなれば感染経路を理解しやすくなります。でも、それは大変恐ろしいことだと思いました。歯科医師の立場としては、唾液腺が感染すると、感染した唾液が飛び散る可能性があり、歯の治療のリスクが高くなります。

しかし、唾液線の導管上皮にACE2が強く発現しているということは、ウイルスが細胞に侵入する前にしっかりと口腔ケアを行うことで、感染リスクを軽減できる可能性が高まります。その考えをまとめて国際誌に報告しました。特許出願の提出とほぼ同時期でした。

高齢者の重症化には口腔機能の低下が関連している可能性がある
(提供元:日本MA-T工業会)

 

高齢者が若者よりも重症化しやすいのは、免疫機能の差だけではなく、口腔機能の差も影響するのではないかという仮説も論文に記載しました。年齢が高くなるにつれて、口腔機能低下による不顕性誤嚥でウイルスが肺に入り込むリスクが高まります。それが肺炎重症化の一因になっているのではないかという内容でした。

この論文は海外の出版社Wileyからのお誘いで、同社のコロナウイルスのサイトに掲載され、研究成果が世界に無料発信されました。

これまでのMA-Tの研究と新型コロナウイルスの研究が1つの線でつながりました。「MA-Tを用いた口腔ケアによる新型コロナウイルス感染予防」という目標が明確になったのです。

世の中に認知してもらうまでの苦労

2021 年初頭、研究成果を元に口腔ケア用品の試作品が完成しました。コロナの影響でオリンピック開催の可否が問われる最中に、首相官邸内でプレゼンをするチャンスをいただきました。その結果、我々の研究に興味をもっていただくことができ、オリンピック・パラリンピック委員会とスポーツ庁にもプレゼンさせていただけることになりました。

そこでMA-Tによる選手の口腔ケアとウイルスの不活化手法を提案し、あと一歩でMA-Tの口腔ケアがオリンピックに採用される目前までいきました。新国立競技場での予行用に大量のサンプルを用意したのですが、選手への使用は難しいという結論に至ってしまいました。残念ではありましたが、観客の口腔ケア用で使用する方向になりました。ところが、その後オリンピックは無観客で開催されることとなり、不採用になりました。関係者一同、大きなショックを受けました。

しかしながら、聖火リレーに使用してはどうかと提案されました。引火性の高いアルコールは聖火リレーには不向きであるため、引火性のないMA-Tが評価され、聖火リレーに採用されたのです。多くの人にコロナ対策用品としてのMA-Tが認知されるきっかけとなりました。

MA-Tは除菌消臭効果が高いだけでなく刺激や可燃性がなく安全である(提供元:日本MA-T工業会)

 

今後の研究について

新型コロナウイルスに対するMA-Tの効果を示すために、早急に臨床試験を進めてほしいと内閣府から依頼を受けました。まずはう蝕や歯周病関連菌などで有効性を示しましたが、新型コロナウイルス感染症患者に対する検証が必要ということでした。患者さんから唾液サンプルを集めて、少しずつ有効性を示すデータが得られました。しかし、オミクロン株のような変異型の流行により研究方法の変更を迫られ、とても苦労しています。臨床研究は一筋縄ではいかないと改めて実感しましたが、根気強く研究を続けています。

現状の試験結果では、MA-Tによるうがい直後であればウイルス力価を不活化できるという結果が出ています。さらに、うがい後であれば何分あるいは何時間効果が持続するかを検証しているところです。一定時間の持続が見込めれば、定期的な口腔ケアによりウイルス感染を抑制する可能性が期待できます。

有効な口腔ケアによって、以前のようにマスクを外した日常生活へと戻るきっかけになればと思っています。実現を目指して研究を続けていきます。