大阪大学歯学部阪井教授インタビュー【後編】研究に憧れて切り開いた道

2022.06.10

口腔ケア用品の開発エピソードやMA-T研究の今後の展望についてお伺いしたインタビュー前編に続いて、後編は、大阪大学歯学部の阪井丘芳教授のこれまでのキャリアパスについてのインタビューです。

現在は多くの実績をあげられている阪井先生ですが、若手時代は失敗の連続でした。研究者の皆様だけでなく、多くの方々にとって励みになるお話だと思いますので、是非ご一読ください。

 

臨床現場から心機一転、研究の世界へ

1991年から大阪大学歯学部口腔外科で、顎の骨折や口腔がん、口蓋裂、抜歯などの口腔外科治療を研修医として学んでいました。先輩指導医のように、手術の上手な優れた臨床医になりたいと思っていました。毎日欠かさず、自宅でも模型を相手に手術のシミュレーションや縫合のトレーニングを続けて努力していました。

その後、大阪警察病院に勤務することになりました。より難易度の高い手術や入院管理を任されるようになり、臨床現場で忙しいながらも充実した日々を送っていました。卒後約5年間、私は臨床を中心に学んでいて、あまり研究をしていませんでした。

1996年、辞令で大阪大学に戻ることになりました。この時初めて、博士号を取得するために口腔がんの研究を開始しました。しかし、3年後に研究室の指導教官が他大学に異動したため、自分の所属する研究グループが消滅してしまいました。研究ができなくなり、しばらく途方に暮れていました。

あきらめかけた頃、医学部から研究員の募集があり、夜や週末だけ研究に参加させてもらうことになりました。その研究グループは神経発生をテーマにしていたため、今までの口腔がんの研究はできず、ゼロからの再出発になりました。新しい実験手法の立ち上げに参加させてもらったのですが、当初はラボに研究費が少なかったためとても苦労しました。他の研究室で不要になった器具を集めて実験機器にするなど、実験できる体制を整えるのが大変でした。

 

若手時代の口腔外科処置の様子

苦難の道も前向きに学位を取得

医学部の研究室では研究生として所属していたため、年下の大学院生の研究のお手伝いを優先して、自分の博士号取得は後回しになりました。

研究のお手伝いは貴重な経験だったと思っていますが、自分の研究を進めることができず、かなり焦っていました。しかし、色々な分野の実験手法を学ぶ事ができ、それが後々の研究アイデアに活かされました。

医学部で研究を始めて2年後、サイドプロジェクトとして行った実験で新しい発見をします。これは面白いと考え実験していたのですが、途中から思うように結果が出ず行き詰ってしまいました。

その時、様々な分野の先生に実験の相談をしていました。その中に複数の研究室でポスドクとして研究してこられた方がいて、基礎から応用まで実験手法にとても詳しかったのです。この研究者との出会いが転機となりました。指導を受けて実験を進めると結果が出始め、Journal of Biological Chemistryという論文に投稿することができました。自分のアイデアで進めた初めての学位論文になり、すごく嬉しかったのを覚えています。

行動し続けて自ら切り開いた留学への道

学位取得の見通しが立っていない頃から、一度は留学したいと思っていました。留学している自分の姿を夢見て、情報を集めていました。急いだ理由として、そのとき私は34歳でしたし、研究者になるまで随分回り道をしていましたので「このまま研究を続けたとしても時間足らずで到底芽が出ない」という思いがありました。

そのために、「学位を取ったらすぐに留学しなければならない」と焦っていた私を見て、周りの先生方は笑っていたと思います。まだインターネットも十分に普及していない時代でしたので、図書館の雑誌などで海外の求人募集を調べたり、思いつくことは全て必死にやっていました。

その頃、憧れていたアメリカの研究者が、大阪で基調講演することを偶然知りました。当時の自分としては大金の参加費3万円を自費で支払い、学会に参加しました。先生に声をかける機会をうかがっていると、一人でポスター発表を閲覧されている姿を発見しました。私はドキドキしながら慣れない英語で雇ってほしいと直談判しました。

その結果、見事に断られました。その先生の研究室には世界中から応募者が殺到しており、大勢がポジションの空きを待っているような状況だったからです。しかし、先生は私にチャンスをくれました。自分の業績を書いて米国のオフィスにFAXで送るよう指示されました。書類を送ると、ポスドクには給料を出せないので、自分で奨学金を獲得するように言われました。

学位取得と並行しながら、20件以上の奨学金に応募し続けました。ようやく2つの審査に採択され、無事に奨学金を受け取ることができました。その結果、1年半後ついにあこがれのラボに雇ってもらえることになりました。無事に学位取得もでき、こうして米国国立衛生研究所(NIH)の留学にたどりついたのです。

NIH Bethesdaキャンパス

留学初年度には危機的状況に

2000年4月、アメリカのワシントンDCでの生活が始まりました。NIHの研究室(ラボ)に行ってみると、ハーバード大学やスタンフォード大学の特待生をはじめ、飛び級の若者もおり、優秀なメンバーが集まっていました。自分の今までの知識や経験で立ち向かっていけるか不安で仕方がありませんでした。

やはり、最初は苦労の連続でした。まず英語をあまり話せないので、コミュニケーションもままなりません。新しい研究に挑戦したかったのですが、ボスからは先輩研究者の引き継ぎの仕事をするように指示されました。研究の計画書を書くように言われ、自分なりの文章を書いて持って行くのですが、先行研究を全然理解していないと叱られました。英語でのコミュニケーションがままならなかったためか、計画書だけでなく、生活態度にも注意されるようになりました。私のつたない計画書を読んで、モノを投げつけるほどボスを激怒させたこともありました。

そうすると毎日ラボに行くのがつらくなり、自分の居場所を探そうとして、剣道クラブに入会しました。アメリカでは日本人の剣道経験者を尊敬してくれました。私は中学時代から剣道を続けていて、当時五段を取得していました。周りの尊敬の視線に、つい調子に乗ったときでした。米軍兵士との稽古中に転倒し、アキレス腱断裂の大けがをしてしまったのです。

アメリカに来て、たった3週間での出来事でした。当然ボスには激怒され、がんの研究で留学したにも関わらず、がんの研究チームから外されるという絶望的な状況になりました。これで夢見たアメリカ生活はもう終わりだと感じました。

ワシントンDC剣道クラブの仲間達と

どん底からのチャレンジでようやく研究テーマが決定

研究チームから外されて、実験テーマも決まっていない私に、ボスは研究テーマを自分の力で考えるように言いました。研究プロジェクトを考え、毎週1回、約50名の研究者の前でプレゼンするのです。英語力がないので、最初は全くできませんでした。何度も失敗しながら繰り返し発表していると、ラボの研究仲間がアドバイスをくれるようになりました。松葉杖をつきながら、予備実験を行っている私を気の毒に思ったのかもしれません。周囲のアドバイスを参考にしながら、少しずつプロジェクトを組み立てていきました。

ちょうどその頃、私はアキレス腱断裂後のリハビリに、週3回通っていました。街はずれにある小さな診療所で、仕事前の朝6時から2時間、リハビリをしていました。担当医は高齢の優しい女性でした。とてもおしゃべり好きで、私が上手く返答できなくても、ずっと話を続けてくれました。彼女の話が理解できるように、新聞を読んだり、ニュースを見たりしました。

この先生と仲良くなって、家族、仕事、文化、政治について話すようになり、気づけば普通に会話ができるようになっていました。6週間まともな実験もできませんでしたが、英語で何とか普通にプレゼンができるようになりました。その時、必死に考え出したテーマのプレゼンが認められて、ようやく研究をする許可がおりました。そしてこの計画が私の運命を大きく動かすことになります。

(左)ラボでの会議風景 (右)研究仲間との集合写真

論文発表までの道のり

テーマが決まって実験をスタートしましたが、最初は安い顕微鏡さえも購入してもらえませんでした。ラボで埃をかぶっていたドイツ製の古い顕微鏡を使って研究をしました。怪我で失った時間を取り戻そうと、寝る間も惜しんで研究に没頭した結果、1年でCurrent Protocols in Cell Biologyに論文投稿できるところまで進みました。

研究結果が出始めると周りの対応が180度変わり、ボスから2000万円程度の顕微鏡なら購入しても良いとあっさりと許可がおりました。設備が増強されるにつれて実験がどんどん進み、2 年余りで2本目の論文を発表することになりました。

「憧れだった Journal of Cell Biology に論文を投稿したいです。」とボスに申し出ました。すると、「JCBへの投稿は許さない。」と言うのです。「一体どのジャーナルに投稿したら良いのですか?」と聞いたところ、ボスの答えは「Something like Nature!(Natureのようなジャーナルに投稿しなさい!)」でした。

そんな無謀な挑戦は何年かかっても無理と思い、頭が真っ白になりました。

米国のボスと友人と研究室の前で

最高峰ジャーナル Nature への投稿

言われるまま、Natureへ投稿すると、3日でリジェクト(却下)されてしまいました。無理だとは思っていましたが、私もボスも落ち込んでしまいました。しかし、リジェクトされた理由は否定されたものではなく、研究の続きを示唆するようなものだったのです。Natureは、宇宙や地学など自然科学全般に関する研究を掲載するジャーナルなので、Cell biology の分野で、しかも唾液腺という非常に狭い領域での私の研究は、Natureのコンセプトに合わないというのが大きな理由でした。

ただし、もっと普遍的で生命現象に波及するような内容だったら審査しても良いということでした。すぐに他の臓器でも同様の研究を開始し、細胞実験でメカニズムも解析しました。何度も厳しい質問に回答するために、土日も追加実験をしました。その間に私の3年という留学期限が来てしまい、最終結果を見ずに帰国することになってしまいました。

帰国後、私は母教室に戻り、口腔外科医として復帰していました。ある日、口腔外科手術をしていると米国のボスからメールがきました。「Natureからメールが来ているが、もしかしたら良い知らせかも知れない。君と一緒に見たいからまだメールを開けていない。」とメッセージがありました。粋なメールにうれしくなりました。そしてそれが最終的なアクセプト(採択)の知らせだったのです。

2003年から急に風向きが変わったと感じました。著名な研究室や学会からも講演依頼が舞い込んで来るようになりました。2004年に口腔外科の講師に抜擢され、臨床医として忙しくしていた頃、米国から戻ってくるように依頼があり、再びNIHに留学しました。

2006年、現在の所属教室の教授に選任され、日本に帰国しました。教授就任後も臨床と研究を続けて、2010年に憧れの Science にコレスポンディングオーサーとして掲載されました。歯科医師の唾液腺研究者が「Nature」「Science」の両方に論文を掲載されることは世界でもなかなかありません。1人では到底なしとげる事はできませんでした。ボスをはじめ、当時助けてくれた人達のおかげだと感謝しています。

NatureとScienceに掲載された論文

最後に

本当に失敗の連続でたくさんの苦労をしましたが、前向きに研究を続けられた原動力は、やはり研究が好きだからだと思います。研究に悩んでいる方もおられると思いますが、諦めなければ道は拓けると私は信じています。この話を読んだ方が、研究に興味をもったり、海外留学にチャレンジしてくれたら、嬉しいです。

熱意のある研究者を応援しています。頑張ってください。