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CONTENTS
愛とは何か。この根源的な問いは、古代ギリシアの哲学者から現代の脳科学者まで、時代を超えて人類を魅了し続けてきた。古代ギリシアでは愛を指す言葉がいくつもあり、その中でもエロス(求める愛)とアガペー(与える愛)は愛の本質を捉える重要な概念として語り継がれている。一方、現代科学は愛を神経伝達物質の作用や進化的適応として説明しようと試みている。
哲学的洞察と科学的知見は対立するものなのか、それとも同じ真理の異なる側面を照らしているのか。本稿では、古代から受け継がれた知恵と最新の研究成果を架橋し、愛という人間存在の核心に迫りたい。
愛について考える際、古代ギリシアが遺した二つの概念は今なお示唆に富んでいる。エロスとアガペー──この対比は単なる学術的分類を超え、人間の愛の根本的な二面性を浮き彫りにしている。
エロスについて、プラトンは著書『饗宴』でソクラテスに興味深い神話を語らせている。太古の昔、人間は男女に分かれておらず完全な存在だったが、ゼウスの怒りを買い、男と女に分けられてしまった。それ以来、男女は元の完全な状態に戻りたいと互いを求め合っているのだと。つまりエロスとは、「失われた完全性を取り戻したい」という根源的な欠乏感から生まれる愛なのである。
この欠乏感こそがエロスの本質である。赤ちゃんが母乳を求めて泣くのも、芸術家が完璧な美を求めて創作に打ち込むのも、恋人同士が相手なしには生きられないと感じるのも、すべて「本来あるべき完全な状態が失われている」という感覚から生まれる。エロスは「失われた完全性を目指して上昇しようとする衝動」なのだ。
一方、アガペーはキリスト教から生まれた概念である。エロスが「上へ向かう欲求」なら、アガペーは「神から人間へと下る慈愛」である。結婚式でよく引用される聖書の言葉にその本質が表れている。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない」(コリント信徒への手紙一13章4-7節)。
アガペーは条件なしに他者を愛することである。教師が問題児に根気強く向き合う姿勢や、ガンジーの非暴力運動の根底にも、このアガペーの精神を見ることができる。自己の利益や完全性を求めるのではなく、ただ他者の幸福を願う──これがアガペーの本質なのである。
現代科学は、この古代からの問いに全く異なる角度から光を当てている。進化論の視点に立てば、愛もまた「生き延びて子孫を残す」という生物学的目的に沿って形成された適応的な仕組みなのである。
神経心理学者ヘレン・フィッシャーは、愛を「魅了」「性欲」「愛着」の三つの要素で説明している。まず「魅了」は、恋に落ちた相手のことばかり考え、どんな苦労やリスクを伴っても相手と一緒にいたいという強烈な思いである。この状態はアルコール依存症者の渇望にたとえられるほど強力で、ドーパミンやノルアドレナリンといった神経伝達物質によって駆動される。
次に「性欲」は、生殖へと向かう根源的衝動である。出産には大きなリスクが伴い、特に人間の場合、女性は妊娠・出産で命を落とす可能性があり、出産後の育児にも膨大な労力が必要となる。経済合理性の観点から見れば決して合理的ではないこの営みを、私たちが敢行するのは、テストステロンやエストロゲンによって駆動される強力な性欲があるからである。
最後に「愛着」は、長期的な絆を形成し維持する機能である。オキシトシンやバソプレシンといったホルモンが関与し、パートナーや子どもとの安定した関係を築くことで、協力しながら子育てを行うことを可能にする。
さらに興味深いのは、男女の愛が母子愛からの進化的転用だとする仮説である。母親が赤ん坊に強く惹かれる様子は「魅了」に近く、赤ちゃん言葉で話しかける行動は恋人同士のそれと酷似している。母子間の絆の方が男女関係より進化的に古いことを考えれば、この強力な愛着メカニズムが異性愛にも応用されたという解釈は十分に説得力がある。
この進化心理学的視点は、現代社会の愛の諸問題にも光を投げかける。例えば、不倫がやめられない理由について考えてみよう。通常の結婚であれば恋愛衝動は出産や育児を経るうちに収束することが多いが、不倫関係の場合、その構造上、出産や育児という生物学的終着点に至ることは稀である。つまり、生殖衝動が満たされることなく、ドーパミンによる報酬系が活性化し続けることで、関係から抜け出せなくなるのである。
哲学的洞察と科学的知見は、一見すると全く異なるアプローチのように思える。しかし、詳しく検討してみると、両者は驚くほど深いところで響き合っている。
まず注目すべきは、ミラーニューロンの発見である。家族が喜ぶ姿を見ると、まるで自分自身が喜んでいるかのような感覚を覚える。子どもが美味しそうに肉を食べている様子を見ると、その喜びが自分の脳内でトレースされる。この神経科学の発見は、エロスとアガペーの境界について重要な示唆を与えている。
プラトンのエロス論における「失われた完全性への渇望」と、現代脳科学の「報酬系の活性化」は、異なる言語で同じ現象を記述しているのかもしれない。ドーパミンによる「欲求」の神経基盤は、まさに「何かが足りない」という欠乏感から生まれる衝動を説明している。芸術家が完璧な美を求めて創作に打ち込むのも、恋人が相手を求めてやまないのも、同じ神経回路の活動として理解できる。
一方、アガペーについても興味深い発見がある。オキシトシンやβ-エンドルフィンの研究により、他者への無条件の愛や共感が、実は脳内で深い満足感や安らぎをもたらすことが明らかになっている。つまり、「与える愛」もまた、与える側に神経化学的な報酬をもたらしているのである。
さらに深く考えれば、エロスとアガペーの区別そのものが曖昧になってくる。母親が子どもを愛するのは、子どもの幸福を願う無私の愛(アガペー)なのか、それとも自分の遺伝子を残したいという根源的欲求(エロス)なのか。恋人同士の愛は、相手を求める欲望なのか、相手の幸福を願う献身なのか。進化心理学的に見れば、これらはすべて同一の適応的メカニズムの異なる表れにすぎない。
現代社会では、マーケティングや情報によって私たちの欲望が絶えず煽られている。しかし、真に求めているものが何かを問い直すとき、多くの人が家族や愛する人との関係に行き着くのは偶然ではない。それは私たちの脳が、何百万年もの進化の過程で愛と絆を最も基本的な報酬として位置づけてきたからなのである。
愛について考察を重ねるうち、エロスとアガペー、求める愛と与える愛、哲学的洞察と科学的知見の区別は、実は同一の現象を異なる角度から照射したものに過ぎないことが見えてくる。
ミラーニューロンの発見が示すように、他者の喜びを自分のもののように感じる能力こそが、愛の根本にある。科学的理解は愛の神秘性を損なうどころか、その奥深さをより鮮明に浮き彫りにしている。愛は長い進化の歴史で培われた生物学的適応であると同時に、私たちを自己の境界を超えて他者とつながらせる超越的体験でもある。
愛を知ることで、私たちはより良く愛することができるのだろうか。この問いに対する答えは、愛そのものと同様に、求めることと与えることの境界を超えたところにあるのだろう。
Buss, D. M. (2019). The evolution of love in humans. In D. M. Buss (Ed.), The evolution of desire: Strategies of human mating (2nd ed., pp. 42-64). Cambridge University Press.
• プラトン(2008)『饗宴』久保勉訳, 岩波書店
• 『新約聖書』コリント信徒への手紙一, ルカによる福音書
• 石川明人(2002)「愛の概念と『相関』の方法──ティリッヒ神学におけるアガペーとエロース」『哲学』38, 77-94
• 遠藤徹(2017)「ニーグレン『アガペーとエロース』再批判」『Religion and Civilization』33, 7-49
• ハビエル・ガラルダ(1995)『アガペーの愛・エロスの愛―愛の実践を考える』講談社