LINE公式アカウントから最新記事の情報を受け取ろう!

前回の記事はこちら:罪悪感の脳科学 それはどこから来たのか、なぜあるのか
幸せな人生とは、どのようなものだろうか。
罪のない人生だろうか。
それとも、罪を感じない人生だろうか。
よくよく考えると、罪悪感というのはやっかいである。何かをしたいという欲望に水をさす。
勢いよく進もうとする心に、急にブレーキをかけてくる。
あんなことをしてよかったのだろうか。
あの人を傷つけたのではないか。
自分だけが得をしてしまったのではないか。
そう考えはじめると、心はなかなか前に進まない。ならば罪悪感などないほうが、人生はうまくいくのではないか。そう思えてくることさえある。
しかし、それでも人間は罪悪感を持っている。
誰にも見られていなくても、胸が痛むことがある。罰を受けるわけでもないのに、頭から離れないことがある。外側から責められているわけではないのに、自分で自分を責めてしまう。
では、この感情はいったい何のためにあるのだろうか。
今回は、罪悪感という感情を、進化と脳科学の文脈から少し掘り下げて考えてみたい。
CONTENTS
人間の感情に、まったく無駄なものはほとんどない。
恐れは危険から身を守る。怒りは不正義に抵抗する。哀しみは失ったものの大きさを知らせ、心を静かに組み替えていく。
では、罪悪感は何をしているのだろうか。
一つ、面白い切り口がある。
それは、「協力」である。
人間は、地球上でもっとも高度に協力する動物の一つだ。狩りをともにし、子育てを分担し、見知らぬ他人とさえ取引する。血のつながりのない相手と契約を結び、まだ会ったことのない人のために働くことすらある。
よく考えると、これはずいぶん不思議なことだ。
協力とは、自分の時間や食料や労力を差し出すことでもある。差し出した側が損をして、受け取るだけの側が得をするなら、うまく裏切る人間のほうが有利になりそうなものだ。
それなのに、なぜ人間はこれほど協力し合うのか。
答えの一つは、「罰の存在」である。
人間は、飴だけでは動かない。裏切れば法律に裁かれる。村八分にされる。信用を失い、社会的な居場所をなくす。そのコストがあるから、しぶしぶでも人は協力する。実際、協力を壊す相手にコストを払ってでも罰を与える「利他的罰」は、協力行動を維持する仕組みとして研究されている¹⁾。
ただ、ここが難しいところで、外側の罰が効くのは基本的には「見られているとき」だけである。
見張りがいる。証拠が残る。誰かに知られる。そういう場面では、罰はよく働く。
しかし、誰も見ていない場面ではどうだろうか。
約束を破っても、誰にも知られない。
少しだけずるをしても、誰にも気づかれない。
相手を傷つけても、自分のせいだとはわからない。
そういう場面では、外側の罰は取りこぼされる。
ところが実際には、誰も見ていないのに人は胸を痛めることがある。約束を破ったことが頭から離れない。自分だけが得をしたことに、どこか居心地の悪さを覚える。
外からの罰なら、見られていなければ消えるはずだ。
でも、消えない。
フロイトはこれを「内側の罰」と呼んだ。
外側の罰が届かない場所でも、内側の罰は静かに作動する。そして罪悪感は、ただ自分を苦しめるだけではない。「関係を修復しよう」「返さなければ」「謝らなければ」という具体的な動機とセットでやってくる。罪悪感は、恥とは異なり、補償や協力行動に向かいやすい感情としても示されている²⁾。
こう考えると、罪悪感はかなり実用的な感情である。
「内側の罰」を持つ人間が集まった集団は、裏切り者だらけの集団よりも長く生き残れたのかもしれない。協力が続く集団のほうが、狩りでも、戦いでも、子育てでも強かったはずだからだ。
罪悪感は、協力を維持するために集団ごと選ばれてきた感情なのかもしれない。
ただし、ここで次の問いが出てくる。
その「内側の罰」は、いったいどこから来るのだろうか。
そこには、脳のある仕組みが関わっている。

サイコパスと呼ばれる人たちがいる。
映画やドラマでは、残虐な殺人犯のように描かれることが多い。しかし実際には、そのイメージとはかなり違う。サイコパス傾向は一般人口にも一定程度みられ、必ずしも全員が暴力犯罪者として生活しているわけではない³⁾。
不思議なのは、彼らが相手の状況を「理解できる」という点である。
相手が今どんな気持ちでいるか。
何をされたら嫌がるか。
どうすれば相手が傷つくか。
そうしたことを、頭では把握できる。
ただ、それが胸に届かない。
自分のしたことで誰かが傷ついても、どこか遠い話のように感じられる。相手の苦しみは理解できる。けれど、その苦しみが自分の身体の中に響いてこない。
罪悪感が生まれないのは、単に冷酷だからではない。
響かないからなのだろう。
では、なぜ響かないのか。
脳には、他者の痛みを「自分の痛み」のように処理する回路がある。前部島皮質や前部帯状皮質は、自分が痛みを感じるときだけでなく、他者が痛がっているのを見るときにも関わることが示されている⁴⁾。
他人の苦しみを、自分の苦しみのように感じる仕組みが、私たちの脳にはもともと備わっている。
誰かが転んだのを見ると、自分の膝まで少し痛くなるような気がする。誰かがひどく傷つく場面を見ると、胸のあたりが縮むような感じがする。そういう身体の反応が、他者の痛みを「自分ごと」に変えている。
サイコパスの脳では、この回路の反応が弱いと言われている⁵⁾。他者の痛みを想像する課題でも、共感に関わる脳活動の出方が異なることが報告されている⁵⁾。
だから、相手の痛みを情報としては理解できても、身体の中で痛みとして立ち上がりにくい。胸が痛まない。居心地の悪さが生まれにくい。
ここで見えてくるのは、罪悪感が単なる知識ではないということだ。
「悪いことをした」と頭でわかるだけでは、罪悪感にはならない。相手の痛みが、自分の身体に響く。その体感があってはじめて、罪悪感は感情として立ち上がる。
罪悪感とは、道徳の知識というより、他者の痛みを自分の身体で受け取る仕組みなのかもしれない。
では、その痛みはなぜ、ときにこれほど強く私たちを揺さぶるのだろうか。
それを考えるには、もう少し遠くまで目を向ける必要がある。

小さな集団で生きていた頃、人間に必要なルールはそれほど多くなかったはずだ。
腹が減れば食べる。
危険なら逃げる。
仲間が傷つけば助ける。
そういう本能の声だけで、だいたいのことは回っていたのかもしれない。
ところが社会が大きくなるにつれて、事情は変わってくる。
見知らぬ相手との利害関係が生まれる。血縁でも仲間でもない人と、同じ場所で暮らし、取引し、働くことになる。そこで本能だけでは処理できない場面が増えてくる。
そこで生まれてきたのが、道徳であり、慣習であり、法律である。
「盗んではいけない」
「弱者を守るべきだ」
「約束は守らなければならない」
こうした規範の声が、社会の拡大とともに人間の内側に染み込んでいった。
こうして私たちの中には、二つの声が同居することになった。
本能の声と、規範の声である。
十八世紀の哲学者ヒュームは、事実と規範は別物だと言った。「〜である」からといって、「〜すべきだ」は導けない。
これは、本能と規範の関係にも当てはまる。
性的な衝動を感じること。
激情のあまり、相手を傷つけたいと思うこと。
自分だけが得をしたいと願うこと。
それ自体は、本能の領域である。
だが、そこから「だからしていい」にはならない。
本能は事実であって、許可ではない。
幸い、この二つは普段の生活では大きくぶつからない。社会の仕組みや日常の習慣が、両者をうまく調整しているからだろう。
だが、極限状態ではそうはいかない。
弟や妹が空腹で泣いている。パンを盗めば犯罪だ。盗まなければ家族が死ぬ。戦場の白兵戦では、相手に剣を突き刺さなければ、自分や仲間が死んでしまう。
そういう瞬間に、本能の声と規範の声は真正面からぶつかる。道徳的ジレンマを扱った脳科学研究では、こうした判断に情動的な処理と認知的な処理の両方が関わることが示されている⁶⁾。
どちらを選んでも、もう一方の声が残る。
どちらを選んでも、自分で自分を裁くことから逃げられない。
ここに、罪悪感の深さがある。
罪悪感は、単に「悪いことをした」という感情ではないのかもしれない。むしろ、本能と規範が食い違ったときに、その裂け目に落ちこんでしまう感情なのではないか。
生きるために選んだ。
けれど、正しいとは言い切れない。
正しいことを選んだ。
けれど、誰かを見捨てた。
このように、どちらか一方だけでは割り切れない場面で、罪悪感は強く立ち上がってくる。
普段の生活では目に見えないが、本能と規範の間には深い裂け目がある。
罪悪感とは、その裂け目を私たちに知らせる感情なのだろう。

ではここまでの話をまとめてみよう。
さて、罪のない人生や、罪を感じない人生は幸せなのだろうか。
一見すると、そう思える。罪悪感がなければ、胸は痛まない。迷いも少ない。自分の欲望に、もっと素直に従えるのかもしれない。
しかし、社会の中で生きていく以上、それはおそらく難しい。
私たちは、誰かと関わりながら生きている。自分の利益を選べば、誰かの不利益につながることがある。自分の正しさを通せば、別の誰かを追い詰めることもある。エゴを持った人間が、社会の中で何かを選ぶ以上、罪悪感は少なからずついて回る。
おそらく罪悪感は、自分の幸福感を直接増やしてくれる感情ではない。
楽しいものではない。気分を明るくしてくれるわけでもない。むしろ、足を止めさせる。ためらわせる。自分のしたことを、何度も振り返らせる。
けれど、そのためらいには意味がある。
罪悪感は、自分の幸福を増やすというより、他人の不幸を減らすために働いているのではないか。自分の行動が、誰かを傷つけていないか。力の弱い人を、さらに社会の淵へ追いやっていないか。そう立ち止まらせる感情として、罪悪感は働いている。
最大多数の最大幸福ならぬ、最弱少数の最小不幸。
その実現のために、罪悪感は意外といい仕事をしているのかもしれない。
人生では何が起こるかわからない。私も、あなたも、あなたの子供も、いつか等しく最弱少数になるリスクを抱えて生きている。
ヒトには想像力がある。
その想像力と罪悪感を十分に機能させたい。