ウェルビーイングの脳科学:予測コストと見通しの正体

2026.03.27

 

はじめに

「ウェルビーイング」という言葉の輪郭は、どこかぼんやりしていて、掴みどころがない。前回の記事では、その手がかりとして「見通し」という概念でウェルビーイングを捉え直せるのではないか、という話をした。

この「見通し」を科学的な言葉に落とすなら、予測コストと呼べる。そしてその背景には、予測符号化理論がある¹²。今回の記事では、この観点からもう一段深く掘り下げていきたい。

 

見通しと予測コストの関係

まずは、以下の 3 つの図を見てほしい。

左の図は先行きがほとんど見えない。真ん中の図はある程度見える。右の図では行き先がはっきり示されている。ここで大事なのは、見通しが「はっきりしていればいい」と単純には言えないという点だ。置かれた状況や目的によって、心地よい見通しの「ちょうどよさ」は変わる。ひとつの仮説として、自分がもっとも心地よいと感じる見通しの水準にあるとき、ウェルビーイングは高くなるのではないかと考えている。

では、この「見通し感」を科学的な言葉に置き換えると何になるか。それが予測コストだ。

私たちは日常の中で、つねに予測しながら生きている。経験のある状況では予測がつきやすく、予測コストは低い。一方、初めて会う人や言葉の通じない相手では予測コストが一気に高くなる。「怖さ」や「不安」といったネガティブな感情は、言い換えれば見通しが立たない=予測コストが高い状態とも言える。脳の本質的な役割のひとつは予測することであり、人間はさまざまな時間スケールで未来を予測しながら行動している¹。予測どおりに進むときは意識に上らないが、外れると注意が向き、意識が立ち上がってくる。

 

予測モデルの更新と成長

この予測モデルは、経験と学習によって更新されていく³

予測モデルの更新とは、自分の中の確率が変わっていくことだ。たとえば久しぶりに子どもとキャッチボールをする場面を考えてほしい。「これくらいの重さのボールが来るだろう」という予測が外れ、思ったより重い球が飛んでくると驚く。何度か繰り返すうちに予測の確率が更新され、やがて現実をほぼ正確に予測できるようになる。

 

引用:Agenda note | マーケティングは、どこまで人間を理解できるのか #21 消費者はなぜ決断を先延ばしに するのか、最新脳科学から推論する対策とは? https://agenda-note.com/customer/detail/id=5574

 

これは「成長」とも言い換えられる。新入社員の頃は予測モデルが粗く、可能性が横に広がっている状態だから予測コストが高い。しかし経験を積むと予測が絞られ、必要なところにだけエネルギーを割けるようになる。重さのわからないボールに全力で構えるのはコストが高いが、重さがわかっていればさっと構えればいい。成長とは無駄な力を使わなくなるプロセスであり、予測モデルが洗練されることで注意とエネルギーを適切に配分できるようになることだ²。

人によって異なる予測コスト

もう一度、最初の 3 つの図に戻ってみよう。あなたにとって「いちばんいい感じ」はどれだろうか。

不安傾向が強い人にとっては、右側の、はっきりと先が見えている状態が安心かもしれない。一方、「全部見通せてしまうとつまらない」という人にとっては、真ん中くらいのある程度の余白がある状態がちょうどいいかもしれない。冒険者タイプの人なら、左側のぼんやりした状態こそワクワクする、ということもあるだろう。最適な見通し感は人によって違うのだ。

さらに、それは性格だけで決まるわけでもない。そのときのコンディションや、置かれている状況によっても変わる。体調が良く、時間にも余裕があるなら、多少見通しが悪いほうがむしろ刺激的で楽しいかもしれない。しかし体調が悪く、2 時間後に大事な会議が控えているなら、できるだけ見通しがクリアであるほうが望ましい。最適な予測コスト、最適な見通し感は、気質とコンディション、そして置かれた条件によって変わるのだ。

ここで、前回の記事に戻ってみよう。ウェルビーイングに関わる要因として、健康、政治経済の安定性、自己効力感、社会的つながりなどが挙げられていた。

同じオフィスで同じ出来事を見ていたとしても、体調が良く、社会が安定していて、自己効力感があり、頼れる人がいる状態なら、多少のピンチでも見通しは立ちやすい。一方、体調が悪く、社会も不安定で、自信もなく、頼れる人もいなければ、同じ状況でも見通しは一気に暗くなる。

そう考えると、ウェルビーイング研究で語られてきたさまざまな要因は、予測コストを上げ下げする要因として捉えることができる。健康は予測の安定性を高め、社会の安定は不確実性を減らし、自己効力感は「自分が対処できる」という予測の確率を上げ、社会的つながりは「助けが得られる」というモデルを支える。ウェルビーイングとは、単なる気分の問題ではなく、予測がうまく回る状態、見通しがちょうどよい水準にある状態と捉えることができるのかもしれない。

 

まとめ

ウェルビーイングというものは、見通し――あるいは予測コストという言葉で説明することができる。

あなたの「見通し感」は、いまどれくらいだろうか。見通しはクリアだろうか。それとも、どこか先が見えにくいだろうか。あるいは、ほどほどに見えているからこそワクワクしている、という状態だろうか。

最適な見通し感は人によって違う。そして同じ人でも、体調や時間の余裕、そのときの状況によって変わる。だからこそ、「自分はどういうときに心地よいのか」を一度立ち止まって考えてみる。そのうえで、自分で調整できるもの――睡眠や体調、予定の組み方、人との距離感や環境――を少しずつ整えていく。そうして自分にとってのちょうどいい見通し感をつくりながら、良い人生を歩んでいけたらいいと思う。

 

【参考文献】

1.  Rao, R. P. N., & Ballard, D. H. (1999). Predictive coding in the visualcortex. Nature Neuroscience, 2, 79–87.

2.  Friston, K. (2010). The free-energy principle: A unified braintheory? Nature Reviews Neuroscience, 11, 127–138.

3.   Schultz, W., Dayan, P., & Montague, P. R. (1997). A neural substrate of prediction and reward. Science, 275(5306), 1593-1599.

4. Kidd, C., Piantadosi, S. T., & Aslin, R. N. (2012). The Goldilocks effect. PLoS ONE, 7(5),e36399.

 

著者紹介:佐藤 洋平(さとう ようへい)

博士(医学)、オフィスワンダリングマインド代表
脳科学・医学的知見を企業のマーケティングコミュニケーションに活用する専門家。理学療法士として15年の臨床経験を持ち、筑波大学大学院にてコミュニケーションに関わる脳活動の研究で博士号を取得。 2012年より、企業の製品・サービスの価値を科学的エビデンスに基づいて説明するコンサルティング業務を展開。「なぜそれが効果的なのか」「どこに価値があるのか」を神経科学・医学生理学・心理学の研究知見から解明し、 ステークホルダー向け資料やマーケティング素材として翻訳・構成・監修することを専門とする。多くの大手企業への学術支援実績を持ち、研究知のシェアリングサービスA-Co-Laboではパートナー研究者として活動。
日本最大級の脳科学ブログ「人間とはなにか? 脳科学 心理学 たまに哲学」運営者。

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