『動物の賢さがわかるほど人間は賢いのか』書評

2023.02.22

「動物の賢さがわかるほど人間は賢いのか」[著]フランス・ドゥ・ヴァール [監訳]松沢哲郎 [訳]柴田裕之

 

 昔、短い期間だったけれど、イヌのお世話をしていたことがある。大きな、陽気なイヌだった。あまりにも人間を好きすぎて、誰彼かまわず飛びついてばかりなので、来客がある時はあまり使わない部屋に閉じ込められていた。

 

ある時、その家に来客があったので、イヌはいつものように部屋に連れていかれた。そして、なぜか私も一緒にその部屋に入ることになった。

 

イヌは最初こそ「出せ!出せ!」と大暴れしていたものの、一緒にいる私に気づくと、いきなり静かに座って背中を向けた。「撫でてもいいよ」という合図だ。

 

イヌの一連の動きと、その背中を見ていると、イヌはまるで私にこう語りかけているようだった。

「なんだ、君も閉じ込められたのか。まあ、僕の背でも撫でて、ちょっと落ち着くといいよ」

 

イヌは、自分のことはさておき、私を思いやり、気遣ってくれた。なんだか嬉しく、そして少し面白く感じながら、私はイヌの背中を撫でていた。

 

 

 他の動物とヒトを比較する際に、ヒトだけが持つ特徴として「卓越した知性」が挙げられることがある。曰く、ヒトだけが自己を認知し、仲間を見分け、道具を発明し、文化を作り、仲間と協力し、未来を予測しつつ行動でき……

 

しかし、それは本当だろうか。あの時、イヌが示してくれた思いやりには、確かな知性の裏打ちがあったように思う。知性は、ヒトだけの特権なのだろうか?

 

本書は、その問いに「否」と答える。ヒトだけが「高度な知性」をもつわけではない。それを証明するために、本書中で著者が挙げていく実例の多さは、とにかく圧倒的だ。著者は霊長類学の研究者であるが、紹介される例は霊長類にとどまらない。本書では、多岐にわたる動物の「知性」が示されている。

 

例えば文化の模倣については、かつて私たちがデイヴィット・ベッカムやアンジェリーナ・ジョリーを大喜びで見習っていたように、類人猿もまた仲間を模倣し文化は伝播することが知られている。類人猿から始まった研究は他の種にも広がり、現在では、イヌ、カラス、オウム、イルカでも同じような能力をもつことが示されている。しかも、考慮にいれるべき種は、より増えていくだろうという見通しが立てられている。

 

また、例えば、顔の認識能力については、霊長類はもちろんのこと、ヒツジも高い能力を示す。ヒツジは仲間の顔を見分けることができるだけでなく、その記憶を最長2年間保持することができる。そして、その時に使う脳の領域や神経回路はヒトが使うものと同じだった。この顔認識能力については、哺乳類だけではなく、アシナガバチでも示されるというのだから驚きだ。

 

さらに、アメリカカケスはエピソード記憶をもち、チンパンジーは群れの力関係に権謀術数を弄し、イルカはメタ認知をしている。本書を読み進めていくと、これらの豊富な実例が、ヒトの知の優越とされるものを次々覆していく様を目にすることだろう。それは、かつてダーウィンが主張した「連続性」、すなわちヒトと動物の違いは程度の問題であって、質の問題ではない、とする立場を強力に後押ししている。

 

そして、ものによっては動物の方が優れた結果を出す場合もある。「写真のように正確な記憶力」という点で、ヒトはチンパンジーに劣るという結果が示されている。知能テストは例外なくヒトの優越性を裏づけるはずである、という見解は、すでに覆されてしまった。

 

本書のタイトルである「動物の賢さがわかるほど人間は賢いのか」という問いに対しては、本文中に答えが示されている。「賢い。だがかつては、とてもそうは見えなかった」だ。本書は動物の知性を解明してきたこれまでの足取りを示しており、「どのようにそれを証明したのか」という実験の例を数多く示してくれるので、そういった観点からも大変興味深く読める。

 

適切な実験が行われなかったために、知性を不当に低く評価されていた動物も多い。かつてテナガザルは他の霊長類よりも知能が低いとみなされていた。道具の使用のテストにおいて、棒を地面から拾い上げて檻の外のバナナを引き寄せる、という課題で成績が悪かったためだ。しかし、そもそもテナガザルの手の構造は他の霊長類と異なっており、平らな地面から物を拾い上げるのに適していない形をしている。課題を設定し直し、テナガザルの手に適した形でテストを行ったところ、テナガザルは素早く手際よくすべての問題を解決した。他の類人猿と同程度の知能があると立証されたのだ。

 

ある動物の生物学的特質に即したテストを行うためには、動物を「ただ刺激に反応するだけの機械」とみなすのではなく、また擬人化するのでもない、新たな視点を獲得せねばならない。世界を動物自身の視点から見る必要があり、それを筆者は「動物の環世界(ウンヴェルト)に入る」と表現している。

 

「環世界(ウンヴェルト)」という概念は、ドイツの生物学者、ヤーコプ・フォン・ユクスキュルによって提唱された。(ヒトを含む)全ての生物は「ありのままの世界」を認知しているわけではなく、おのおのの知覚や作用によって区切られた世界を生きている、という考え方だ。

 

例えば、ある種のダニの「環世界(ウンヴェルト)」の中には、光や音は存在しない。ダニは木に捕まり、下を通る動物が発する酪酸の匂いにひかれて落下し、暖かい皮膚に到達すると血を吸う、という生活をしている。そのため、ダニの「環世界(ウンヴェルト)」で知覚されるのは、酪酸の匂いと温度だけだ。ヒトの知覚と比較すると、随分貧しい世界に生きているように思えるが、この単純さはダニの強みともなる。ダニの目的は明確であり、それを逸脱させるようなまぎれがほとんどないからだ。

 

同じように、イヌの「環世界(ウンヴェルト)」は、視覚の要素があまり役にたたない代わりに、匂いや音が大きな意味をもつ世界であるだろうし、コウモリの「環世界(ウンヴェルト)」の中では超音波が駆使されているだろう。たとえ同一の環境に存在していても、生物はその種ごとに、異なる世界を見ている。

 

私たちは、動物が実際に感じているものを直接知覚することはできない。しかし、狭小な自分の「環世界(ウンヴェルト)」の外に踏み出し、想像力を働かせて、他の動物の「環世界(ウンヴェルト)」に思いを馳せることならできる。

 

そして、動物自身の視点を獲得できたなら、それは、謎と驚異の無尽蔵の源泉となる。カール・フォン・フリッシュは、それを汲めば汲むほど水が湧いてくる「魔法の泉」に例えた。動物の行動や生態からは、数多くの「魔法の泉」が得られ、その中にはヒトの想像を越えるものもある、と筆者は述べている。

 

なにしろつい最近も、「魚の中には、自己の姿を認知できるものがいる」という研究結果が示されたところだ(https://www.pnas.org/doi/10.1073/pnas.2208420120)。魚類のホンソメワケベラは、鏡の中の自分の姿を自分として認識できる。鏡の中の像の動きが自分と連動しているから自己だと判断しているわけではなく、きちんと自分の顔を見て自己の認識をしている、と写真を使った実験から示された。魚類に「内面的自己意識」があるならば他の動物にもあるかもしれず、また魚の「認知」についても新たな光が当てられた研究でもあるため、さらなる進展が期待されている。

 

人間中心主義を脱し、始まったばかりのこの分野を、筆者は「進化認知学」と呼ぶ。動物もヒトも含め、進化の観点からあらゆる認知機能を研究しようという分野だ。サル、イヌ、カラス……といった隣人たちの「知」を知ることは、私たちの世界を広げてくれる。私たちの想像もつかないような知の形さえありうるかもしれない。他の種をありのままに評価していこうとするこの分野は、今後ますます発展していくことだろう。そしていずれは私たち自身のもつ「知」のありようも変えていくに違いない。本書はその導き手となってくれる、素晴らしい一冊だ。

 

 

ぜひ本書を手にして、他の生物の「環世界(ウンヴェルト)」を覗き、その知に驚嘆してほしい。読後は、目にする世界がより深みを持ち、より色彩豊かになるだろう。「魔法の泉」への扉は、あなたのすぐ側にある。

(文:寺本 悠子)

 

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【著者紹介】ごもじもじ(寺本 悠子)

科学ライター。筑波大学大学院環境科学研究科環境科学専攻修了。
保全生態学・動物生態学を中心に、コラム・小説等の書き物をしています。環境倫理学にも関心があります。